【謎の「烟たい」絆】

あれから―10年の月日が流れた
思い出せば胸が痛くなる青春は疾うの昔
一つ屋根の下で俺、椿明と―
椿美琴(旧姓卜部)は、この度所帯を持つこととなった
(白いスーツでドギマギする椿と、黒無垢のウェディングドレスで微笑する美琴、二人にカメラを向け目を輝かせる上野「夫妻」)
結婚当初こそ初々しさは抜けていなかった二人だが……
今は二人きりで静かな時間を過ごし、特に贅沢をするでもなく―

妻、美琴はのんびりと明の帰りを待っている

21時45分過ぎ―
ふと机の上の電話の鳴る音が響き、美琴は観ていたテレビの音量を絞り白い手を伸ばして受話器を取った。

「はい、椿です」
『ああ美琴、悪いな……遅くなったけど、今やっと帰れるよ』
少しくたびれ気味の明の声が受話器越しにホームの喧騒とアナウンスをバックに聞こえてきた。
今からだと、帰りの列車には20分間程揺られる計算だ。
「あなた、今日は帰れないって言ってなかった?」
『それが、どうもお得意様の問題だったらしいからあっさり解決しちゃって』
プシュ、とドアの開く音が受話器越しに聞こえた。
「そう、じゃあ帰りに寄ってきて欲しい所があるんだけど」
『えっと……コンビニ?』
「うん。飲み物はさっき買ってきたから、あとは……えっと、ベーコンかな」
『お前ってベーコン好きだよなぁ』
「後はあなたの好きなものでいいから」
『分かった。待たせてゴメン、美琴』
愛してるよと一言添えられると間もなく電話は切れた。美琴は台所に立つと夕飯を温め、食卓に並べ始めた。
ふと、脳裏に上野―もとい丘歩子の言葉が響く。

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「卜部さんって、結婚したらどうするの?」
いつかの酒の席で、唐突に丘はそんな事を訊いてきた。
美琴は暫し、目の前のシードルを眺めたまま答えなかった。
「私ね、思うの。」丘は自分のハイボールを半分程啜ると少し真剣そうな表情で語っていた。
「結局のところ結婚ってゴールじゃないんだな、って」
「え?」突然の結論に美琴は吃驚して目を見開く。
「上野くんが言ってたよ、この先もっと冒険したいけど一人じゃ不安なんだって。人生には誰も当てにせず一人だけで進まないといけない事もあるし―」
丘はそれだけ言うと口を噤み、頬を赤く染めて俯きこう続けた。
「私とね、二人で進まないといけない事だってあるんだ、ってね」
二人で進まないといけない事。その言葉は美琴に一抹の不安を与えた。
この先、美琴が明の伴侶となるにあたっていかなる場合でも進まねばならない事が多々ある事だろう。
先にある道は常に『順調』か『逆境』しかない。後戻りなど不可能である。
その先にある物は何か。終着点は何処になるのか。
「あのね丘さん、私……」
「ん?」
「……何でもない」
その時美琴は、黙り込んだまま微笑していた。
そんな回想を思い浮かべていたその時、玄関のドアが開く音の直後にドタバタと足音が響いた。

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「ただいま!」
「あら、おかえりなさい。ご飯出来てるよ。」
やれやれと明は鞄をテーブルの脇に放り投げ、ネクタイを緩めるとコンビニで買ってきたベーコンとつまみを渡した。
勤労者の夫を労う妻の夕食はいつでも黄金の輝きを放っているものだ。
味噌汁、ニラと卵の炒めもの、塩鮭、納豆には七味、そしてホカホカの銀シャリ。
塩鮭は冷凍庫から取り出して焼くだけだが新鮮なまま照っているのは嬉しい。
「いただきます」俺は空腹のあまり飛びつくように箸を進める。
美琴はその様子を暫し微笑いながら眺めていたが、何か閃いたようにベーコンを持って台所へと吸い込まれた。
いつもながら美琴の料理は美味い。家に帰れば当たり前のように待っているのだから当然だ。
ゆっくりまったりと、独りで静かに幸福に箸を進める。気が付くと料理はすべて俺の胃袋に収まっていた。
「ごちそうさま!」
「明くん、今日のお酌よ」
食卓には鶏のベーコン巻きとウヰスキーハイボールが置かれた。
久々に飲む酒はまた格別だ、五臓六腑に染み渡る。
美琴の作ったベーコン巻きも意外にもあっさりとした造りでボリュームもそれなりにある。
ああ、何たる幸せか。明の脳裏にはふとラジオで聴いた「夢のマルティ・グラ」が響く。
明はしばし祭りのような気分でハイボールを一杯飲み干した。

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程よく酔いが回った頃にふと辺りを見回すと、美琴はベランダに出ていた。
彼女の口元には長さ7、8センチ程の白い紙巻が咥えられ、美琴は小さなライターで火を灯すとその端から紫煙を燻らせていた。
ふぅ、と軽い溜息に混じり白い煙がもうと立ち昇る。
煙草か、そういや丘……もとい上野歩子の付き合いで始めたと美琴は言ってたな。
美琴の手元に置かれた煙草の箱には「ガラム・シグネチャーマイルド」とある。
箱からも深く重厚な味わいが見て取れそうだが、これは2週間くらい前に美琴がふと立ち寄った葉巻屋で見つけたものらしい。
何やら甘い匂いが漂ってきた。匂いの元はどうやら紫煙から来ているようだ。
「へぇ、変わった煙草なんだね」と俺は感想を漏らした。
「本当はもっと強い煙草も吸ってみたいんだけれど」と、美琴は妖しげに微笑う。
そして俺の目の前でもう一口吸うと、煙の輪っかをぽっぽっと幾つか吹き出した。
何となく、楽しそうだ。美琴に混じって吸ってみたいと興味が湧く。
「俺も一服していいかな?」
「うん」美琴は笑顔で答えた。
「じゃあ、自分のを何かひとつ買ってくるよ」
俺は酔いが覚めてきた身体で近くのコンビニに走って行った。

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コンビニの中はガランとして、人の姿は疎らだった。
ふと若い店員の方を見遣ると、カウンターの中には赤や青、緑、黒白と色とりどりの箱が並べられている。
数々の煙草を目で追っていくと、中にひときわ目立つ奇妙なパッケージを見つけた。
「ゴールデンバット」小ぶりで値段も安い。ふと絵柄のコウモリが俺にウィンクした気がする。
『喫みますか? (Y/N)』の言葉が脳裏をよぎった。
一瞬考えて、俺は心の中で『はい』と答えた。
店員に目を合わせると「すいません、168番のゴールデンバットをひとつ」と注文する。
「200円になります」俺は財布から小銭を出そうとしたが、此処で火を灯す道具がない事に気がついた。
電池や生活用品のある棚を見ると小さな燐寸を見つけた俺は、小走りで店員に渡した。
袋は要らないだろうと思ったので、会計を済ませるとそのままシャツのポケットに煙草と燐寸をねじ込んだ。
俺は走って帰り、ベランダで背筋を伸ばしていた美琴の横に座った。

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まず封を切りパッケージを開けて気がついたのだがこの煙草にはフィルタがないのだ。
どうやって吸うのだろうかと少し悩んだが、美琴はその煙草を取り上げると慣れた手つきで一本取り出した。
「これは最初に口を潰すのよ」美琴はその紙巻をトントンと軽く床に叩きつけ、潰した先を俺の口にねじ込んだ。
……異性が自分の知らない事を平然とやってのけるって、何だか不思議な気分だ。
俺は少し戸惑いつつ燐寸を擦り、慣れない手で火を灯した。
最初の一口。思っていたより煙が濃い。思わず咽てしまった。
「明くん、それ深く吸っちゃダメよ」
俺は美琴に窘められて一度煙草を口から離すと一呼吸おき、再び咥えてゆっくりと煙を口中に吸い込む。
この香りは……洋酒?辛いというより、深い。
少しパサパサした口当たりだが、慣れてくるとそこそこ美味い。
美琴はじっくりと時間を掛けて喫んでいるが、大分灰が増えているような気がした。
ふと、静かなる溜息のように白い煙がふぅと吐き出され立ち昇る。そして燃える煙草をとんと灰皿に叩きつけ白い灰が落とされた。
その仕草は、少し……艶かしい。
俺も溜まった灰を灰皿へ捨てると、美琴は既に一本吸い終わっていた。
「明くん、私にも一本ちょうだい」どうやらバットに興味があるらしい。
「いいよ」俺はパッケージの口を美琴に向けた。
美琴はそこからもう一本取り出すとトントンと床に叩きつけて咥える。
ところが何を思ったか美琴はライターで火を点けずに、今俺が吸っている煙草の先に咥えている煙草を近づけた。
「じゅっ」と煙草の先が黒ずみ、煌々と赤い炎が灯る。
これって……何かを思い出した次の瞬間、美琴の身体に異変が起こった。

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鼻血だ。
どうやら俺達は煙草の煙を媒介して感情を共有してしまったらしい。
「あ、あの……美琴?」俺は怪訝な顔で美琴を覗き込む。
美琴は煙草を口から離して灰皿に置くと、頬を紅く染めていた。
「……明くん、私に欲情しちゃったの?」
「ぎくっ!……う、うん。」俺は仕方なくそうだと答えた。
まさかシガレットキスだけでこんなに通じ合う事になってしまうとは。
暫し二人は沈黙し、美琴はもう一服すると口を開く。
「……私達、これからもっと冒険する事がたくさんあるのね」
美琴は空を見上げて笑う。紫煙に燻されている月が輝いて視界に入る。
確かに俺達はまだ、知らない世界をこれからもっと知る事が多々あるかもしれない。
それが例えどんな世界でも……

『明くんとなら―』
『―美琴となら』

さぞかし、夢見る旅になるだろう。
二人の心の中には、自然と次のステップを踏み出す希望が生まれてきた。
そして、同じ月を眺めて微笑っているのであった。

ふと、美琴が此方に視線を向ける。
「だけど私達、その分もっと不健康になっちゃうかもしれないわ」
「スマン」

【謎の「烟たい」絆 -Fin-】


【謎の「烟たい」絆 -あとがき-】
この世にシガレットキスという遊びがあると知ったのは18歳頃で当時自分は煙草も酒も独りで嗜むモノだと思っていたのでした。
(しかも知ったの腐モノだし)
そういうわけで今回のSSでは嗜好品にも拘ってみました。
ゴールデンバットもガラムも自分の好きな銘柄ですが、今回美琴に似合いそうだったのはシグネチャーマイルド、ガラムの中では軽い煙草です。
(手持ちはスーリヤマイルド)
個人的にウヰスキーはオンザロックが好きだったりしますが明の場合は下戸が酷そうだと想像してハイボールへ。
マッサンにあやかるワケではありませんが個人的にニッカ推しです。クリアブラック好きなんだもん。
ところで、皆さんは煙草吸ってる女の子って可愛いと思いませんか?
とまあ今回はそういうお話でした。