「…きくん…」
(ん…?)
「…つばきくん…!」
(誰か…呼んでる…?)
「椿くん!」
「うら…べ…?」

目を開けるとぼんやりと視界から徐々に卜部の心配そうな顔が見えてきた。

「椿くん…ごめんなさい、もう大丈夫だから…」
気がつくと僕はソファに横になっていた。
(ここは…?)
どこかの事務所っぽい部屋…奥には大学生くらいの女の人が…。

(そうだ…確かあの時…)


―夏休みの最終日。
僕は卜部と初デートに出かけた。
映画を観て、買い物に行き、その帰りだった。

すっかり日も暮れて夕闇色のグラデーションの下、
僕の漕ぐ自転車の後ろに横座りした卜部が言った。

「ねぇ、椿くん…お腹空かない?」
「ん?そうだなぁ…確かに昼から何も食べてなかったね」
「私は今日、親が帰ってこないから外食でもいいんだけど…椿くんは?」
「あぁ、じゃあ家に電話して夕食は食べて帰るって言っとくよ」
「…ホントにいいの?」
「せっかくの初デートなんだし、もうちょっと卜部と…その…一緒にいたいかなって…」
「…んっ…!(ジュルッ」

どうやらすっごく嬉しかったようだ。
よだれが溢れ出ないよう口に手を当てて頬を染める卜部を、
ペダルを踏みしめながら背中越しに想像した。

「どこで食べようか?」
「そうね……あ…!あそこはどう?」
卜部が指差す方を見てそちらへ移動する。

― 御台所 猫酒町 ― 
少しレトロな雰囲気の店だが…

「ここ?なんか居酒屋っぽいけど…」
「でも昼はランチもやってるみたいよ」
「そうみたいだけど…入れるかな?」
「とりあえず入ってみましょ、お腹空いちゃったし…この際何でもいいわ」

そう言って自転車からスッと飛び降りるとさっさと店に入ってしまった。
「お、おい!卜部ぇ!」
慌てて自転車を停めていると店から卜部が顔を覗かせた。
「椿くん、大丈夫みたいよ」
「あ…あぁ、今行く」

店へと入ると割烹着を着たアルバイトっぽいお姉さんが案内に来た。
「いらっしゃいませ〜、お座敷席が空いておりますのでどうぞ奥のお席へ」
言われるがまま付いて行くと障子で囲まれた小さな個室の座敷部屋に案内された。
「ごゆっくりどうぞ〜」
今日は金曜日ということもあって店内はサラリーマンたちで賑わっているようだ。

「おれ、こんなとこ初めて来たよ」
「私もよ、椿くんとじゃなきゃ入ってないわ」
(それって…『もし酔っ払いに絡まれたら助けてくれる…?』ってやつ?)
内心、期待されてる感に満たされつつも、
(いや、卜部のことだから仮に絡まれたとしてもパンツハサミで撃退するに違いない…)
と、その自己満足感は即却下された。

卜部はというと買い物袋の中からゴソゴソと何かを取り出している。
「卜部、それは?」
「クーポン券が載ってるフリーペーパーよ。さっきのデパートで取っといたの」
(意外とちゃっかりしてるなぁ…)

「あったわ、猫酒町…ドリンクが無料になるみたいね、それか10%オフ」
「ここはおれが出すから、好きなの飲んでよ」
「ダメ、私が無理にご飯誘ったんだから。割り勘よ」
「遠慮しなくてもいいのに」
「遠慮じゃないわ、私は椿くんと一緒に食事が出来るだけで十分満足なの」

卜部はいつの間にか取り出したパンツハサミでクーポンを切り抜いている。
「…普通に使うんだね…」
「…?いつも普通に使ってるわよ?」
「うん…そりゃまぁ、そうなんだろうけど…」
いつも神業的なハサミを見せつけられている分、何だか新鮮な光景だった。

「失礼いたしま〜す」
さっきの店員がおしぼりとお冷を持ってきてくれたようだ。
「ご注文がお決まりになりましたらそちらのベルでお呼びくださいね〜」
そう言って卜部と僕におしぼりを手渡し、グラスをテーブルに置いた。
「ごゆっくりどうぞ〜」
店員も少なそうだし、なんだか忙しそうだ。

「よかった、私ちょうど喉乾いてたの」
卜部はグラスを手に取りゴクゴクと勢い良く飲んでいる。
「あんまり急いで飲むとむせるぞ」
「……!!ゴホッ!ゲホッ!」
言わんこっちゃ無い…

「う、卜部…大丈夫か?だからゆっくり飲めって…」
「ち…違うの…これ…」
「…?」
卜部…激しくむせたせいか顔が赤くなってる……
それに、口が半開きでボーっとしているようだ。

「卜部、どうしたんだ?具合悪いのか?」
「……。」
卜部は僕の問いかけに何の反応もなく、少しフラッと上半身が揺れたかと思うと
突然テーブルに突っ伏してしまった。
「お、おい!卜部!……寝てる…?」

いつも教室で休み時間に寝ている時のようにスースーと寝息を立てて卜部は眠りこけている。
「う…卜部!いきなり寝るなよ!まだ注文も取ってないんだぞ!」
卜部の肩を揺さぶる。
「…ん〜…」
すると、彼女はバッっと上半身を再び起こした。

顔はまだ赤く、いつもの険のある目付きがトロ〜ンとして
半開きの口からは少しよだれが垂れている。
ちょっとドキッとしてしまった。
(…卜部…だらしない顔してるぞ…)

常に全く隙を見せない彼女とは思えない表情で何だかぼんやりとしている。
「きょ…今日はちょっと疲れたね」
「…そうね…」
小さな声でそう呟くと同時に卜部の方が小刻みに揺れ出した。
「…っ…くくっ…んふふふ…」
(わ…笑ってる?)

そんな、まさか、と思うまもなくとうとう卜部は吹き出してしまった。
「ぷはっ…!あはははははははははは!!」
「う……うら…べ…?」
大怪笑を見たのは実に久しぶりだ。

付き合ってからは一度もなかったのに…また謎の声でも聞こえたのだろうか。
「どうしたんだよ!卜部!また何か聞こえたのか?!」
「あはっ…うふふふ…ごめんな…さい…ふふっ…何でも…ないの……」
そう言いながらも卜部はまだくすくすと笑いをこらえるのに必死なようだ。
(どうしちゃったんだ?急に…水を飲んでむせた途端………まさか……)

僕は嫌な予感がしてお冷として手元に置かれたグラスを鼻に近づけた。
くんくん……やっぱり……

「お客様!申し訳ございません!!」
突然そう言ってさっきの店員が慌てた様子でガラっと障子を開けた。
眉間にシワを寄せ本当に申し訳なさそうな表情をしている。
「先ほどお持ちしたお冷なんですが…こちらの手違いで、焼酎の水割りを出してしまいまして…」
店員は卜部のほぼ空になったグラスに目をやった。

「の…飲まれちゃいましたか…?」
「は、はい…彼女だけですけど、気づかずに勢い良く飲んじゃって…」
いつの間にか卜部はまた休み時間スタイルで眠りについていた。
「本当に申し訳ございません!お客様…大丈夫ですか…?」
店員は卜部に声をかけるが反応がない。

「わ…私まだ日が浅いもので……て、店長と相談して参りますので少々お待ち下さい…っ!」
かなりテンパっているのが僕にも分かった。
急いで水割りを下げ、本物のお冷と取り替えると彼女は厨房の方へと駆けていった。

僕も卜部に声をかけてみる。
「卜部…ホントに大丈夫か…?気持ち悪かったら横に…」「椿くん」
卜部はテーブルに突っ伏したまま僕の声かけを遮った。
「誰…?さっきのキレイな人…椿くんと仲がいいの…?」
「ちっ…違うよ卜部!さっきのは店員だろ!?」
突拍子も無い卜部の質問に慌てて答える。

「…初めてのデートなのに…椿くんが他の女の人と仲良くするなんて…」
ヤバい…
完全におかしな方向に思考が偏り始めている。
怒りのパンツハサミが脳内を横切った。
今、酔った手元で発動されたら命の保証はない。
背中を一筋の冷たい汗が流れた。

「…え〜〜ん!!(泣」
「……は?」
突然、両腕で顔を隠しテーブルに伏せたまま今度は泣きだしてしまった。
「ぐすっ…椿くんがぁ……キレイな人と仲良くしてたぁ…!ぐすっ」
まるで幼い子どものように泣きじゃくる卜部。

「お…おい、だからなんでもないって!」
涙は女の武器とよく言うが、卜部に突然そんなの使われたら
パンツハサミ以上に太刀打ち出来ない。

「…ホントに…?」
「ホントだって!」
僕は卜部をなだめようと彼女の側に寄った。

「…ふふっ…うふふふ……」
またもや笑い出す卜部。
「…?」
「うそだよー☆…あはっ…あはははははは!」
…もはや何が「うそ」なのかよく分からない。
お腹を抱えて愉快そうに笑い続けている。

「うふっ…ふ…ふふ………すぅ…」
「……」
そしてまたいつものスタイルで眠りにつく。
(もしや酔いが覚めるまでずっとこのループか?)
ダメだ…早く何とかしないと…

「失礼致します」
さっきとは違う少し老けた、人のよさそうな女性店員が障子を開けた。
「先程は大変失礼致しました。お連れ様のご様子はいかがでしょうか?」
おそらくこの人が店長だろう、卜部のことを心配してくれている。
「多分、気持ちが悪いとかではないと思うんですけど…」
僕はテーブルに顔を乗せたまま動かない卜部に目を向けた。

「そうですか…よろしければ事務所の方にソファがありますのでそちらで休まれますか?」
「いいんですか?」
「責任はこちらに全てありますし…それに未成年者にお酒を出したと表沙汰になるとちょっと…ね」
色々と大人の事情があるようだ。
卜部もこのままにしておくわけにはいかない。

「おい、卜部!ソファ貸してくれるって!歩けるか?」
「…うう〜ん…」
「仕方ないな…」
僕は卜部に背中を向けた。
「ほら、おんぶするから」
そう言ったら渋々歩くに違いない…そう思ったのだが…

むにゅっ…
「えっ?」
両脇から白い腕が僕の首周りに絡みつき背中には柔らかい感触…
「……」
卜部は黙ったまま僕にしがみついていた。
「じゃっ…じゃあ、行くぞ、卜部」

意外なほど素直な卜部の行動に少し戸惑いつつも僕は彼女を背負った。
にしても…や…柔らかい…
卜部の身体が僕の背中に密着している。
そしてこの…ふにっとした卜部の太ももの触り心地はしばらく忘れることはないだろう。

「ぐすっ…椿くん…ごめんなさい…ごめんなさい…ぐすっ」
また謎の大怪泣が始まった…。
笑い上戸なのか泣き上戸なのかよくわからない。
でも僕は卜部の感情を直に感じることで何故だかとても幸せな気持ちになった。
「よしよし」
こんな卜部もちょっと可愛いな…

「STAFF ONLY」のドアから案内されたのは客席側とは全く違った殺風景な事務所だった。
パソコンとプリンタ、それらを乗せたデスク、ファイルが収納されたキャビネット、
そして少し大きめのソファとTVがあるくらいだったが表よりも静かで休ませるには十分だ。

「卜部、降ろすぞ…」
僕はゆっくりと熟睡モードに入った卜部をソファに腰掛けさせた。
「それじゃあ、彼女さんの目が覚めたらいつでも呼んでちょうだいね」
そう言って店長さんはまた職場へと戻っていった。
卜部の酔いが程よく覚めたら好きなメニューからご馳走してくれるらしい。
お詫びと口止め料的なものも含まれているのだろう。

少し帰りが遅くなりそうなので忘れないうちに電話を借りて家に掛けた。
姉さんが出てちょうどこれから夕食を作るところだったらしい。
僕は友だちの家で食べて帰るから、と適当な嘘をついておいた。
姉さんは疑う様子もなく「気を付けて帰るのよ」と言い、僕は受話器を置いた。

さて…
ソファの方にちらっと目をやる。
卜部はソファに横たわり、すやすやと寝息を立てて眠っている。
それにしても…無防備すぎ…。
よからぬ妄想を払いのけながらしばらく彼女の寝顔に魅入っていた。
まだ少し顔が赤く、口からはまたよだれが垂れていた。

(…卜部の…よだれ…)
そういえばまだ今日の分を舐めていない。
それに今、卜部がどんな夢を見ているのかとても気になる。
デートに行く時、「最近ヘンな夢ばかり見ちゃう」と言っていたが今もそうなのだろうか。
僕……気になります…!!
卜部の口元からよだれを指でぬぐい、それを自分の口の中へゆっくりと運んだ。

くちゅ…くちゅ…
(甘…あ…アツい……そっか…卜部…酔ってるんだったな…)
しかもアツいのは股間部も例外ではなかった。
「…卜部…今どんな夢見てんだよ…///」
僕の顔も赤くなっていくのが鏡を見なくても分かった。

…しまった…眠くなってきたぞ……


――じゃあ卜部が先に起きて僕を起こしてくれたのか…
「ごめん…卜部、おれまで寝ちゃって…」
「ううん、いいの。ただでさえ疲れてたのに私のこと介抱してくれてたんでしょ?」
…そういうことにしておこう…
「そういえば店長さんは?」

「店長ならまだ厨房にいるよ」
若いアルバイトのお姉さんがパソコンでソリティアをしながら答えた。
割烹着から私服に変わっていたので気が付かなかったが間違えて水割りを持ってきたあの人だ。
「本当にごめんね。私いつもはランチタイムから夕方の時間しか入ってなくて…」
バツが悪そうに、てへぺろをしてみせた。

「ところで二人ともお腹空いてるんじゃない?ここにメニューあるから好きなの選んで☆」
僕と卜部は「ベーコン巻きセット」やデザートの「恋のオーケストラ」などをご馳走になった。
食べ終わる頃には店長もやってきてタクシー券を渡してくれた。
自転車も乗せられるように手配もしてくれているらしい。
タクシーが着いてから僕らは店を出た。

「今日は色々とありすぎたね」
卜部と僕はタクシーに揺られながら一日を振り返っていた。
「そうね…ところで椿くん…」
「ん?」
「さっきの店で私…ほとんど記憶が無いの…」
「そ…そうなんだ…」
「私…酔って変なこと言ったりしてなかった?」
してました。とは言えません…
「んーと…すぐに寝ちゃってたから特に…何も…」
「そう…?」
「けど…」
「けど…何?」
「卜部の寝顔、その…可愛かったよ」
「…バカ…」

車内は暗かったけれど、
はっきりと卜部の顔が赤くなったのが見えた…。

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